Dark blueの絵日記

ハロプロ関連の記事が主。後は将棋と猫を少々

棋士 楓

楓は師匠が顧問をしている将棋センターに入ると、
大勢が囲む中、対局が行われていた。

何かただならぬ気配がする。対局しているのは常連のアマ
三段と和服を着た白髪の老人だった。センターの席主や
楓も知っている奨励会三段の上国料も居る。

楓が知り合いの人にどうしたのか聴くと、
「あっ先生!大変な事になってまして」

なんでも、初めて来たあの老人が常連のアマ三段に
賭け将棋をしようと持ち掛けて、負ければ百円と言ったので
彼も軽い気持ちで応じて、彼が勝ったのだけど、
すると老人は百円を渡しながら、もう一番と言いながら、
次から額を倍々にすると言う。つまり、次は二百円、四百円、
八百円と掛け金を倍に上げて行く。

すると、次局からその老人が強いのなんの、なんと十連勝した。
たちまち掛け金の五万円を取られてしまった。

楓は、最初百円だった掛け金がなぜ五万円にもなったのかと
頭の中で暗算すると、倍々ゲームの恐ろしさを痛感した。

常連さんは、熱くなってもう一番と言ったのだけど、
次負ければ、十万円になる。そして、二十万、四十万、
八十万、百六十万円。次にもう五連敗すれば、五千万円。
次も負ければ、一億円と途方もない金額になる。

その頃には大騒ぎになって、指導に来ていた嗣永八段が来て、
賭け将棋は禁止だと言って止めさせようとしたのだけど、
その老人は、
「それは悪かった。もちろん止めるよ」

おさまらないのは負けたアマ三段の人で、
それなら掛け金の五万円は返せ。となって、返せ!
返さない!と、言い争いになった。

すると居合わせた奨励会三段の上國料が、
「じゃあ私が代わりに次の将棋を指します」と言い出した。
負ければ十万だけど、彼には自信があるようだった。

そこで、席主は顧問の嗣永八段と相談して考えた末に
上國料三段にその老人と指す事を許す事にした。
ようするに老人が負ければ良いのだ。

上國料は三段リーグ突破を期待されるほど実力を
認められていて、よもや老人に負けるとは思えない。

彼が勝てば、老人に常連から巻きあげた5万円だけを
返させてから、帰れと追い出せば良い。

老人は少し考えていたが、続ける事を了承したのだった。

楓は一度その場を離れて、少し経って観に行くと、
上國料は油汗を流してうなっている。局面は見た事も無い
大乱戦で、形勢は明かに上國料三段の敗勢だった。

ついに「負けました」と頭を下げるしかなかった。

修羅場の奨励会三段リーグを戦っている上國料だけど、
十万円が掛かった賭け将棋なんて指した事は無かったろう、
プレッシャーにつぶれたのかもしれないし、
老人の定跡外れの将棋に翻弄されたようだった。

老人は「これで勘弁したる」と手を出した。
上國料はなおも、もう一番と頑張ったが老人は首を振ると、
「もう時間が無いんや。大阪へ帰らなあかん。
早よう金を出しい」

蒼くなった上國料が十万円は持って無いと言うと、

老人は辺りを見回すと、「借りればええやろ。銭も無いのに
十万円が掛かった将棋を指すとはええ度胸やな。
そこの大先生やったら十万円ぐらいなら持ち合わせとるやろ」
と、嗣永八段を見る。

嗣永八段は、
「その、次は俺が相手をするわけにはいかないか」

老人は思わず手を振ると、
「それはあかん。いかに儂でもプロの八段にはかなわんわ」

嗣永は賭けは違反だから出せないと突っぱねる事も出来たのだが、
これ以上事を荒立たせたく無かったのか、
丁度銀行から降ろしたばかりで、封筒に十万円を持っていた。
嗣永が懐に手を入れた、

「先生!」思わず上國料が声を上げたと時、

その瞬間、楓が前に出た。
「待って。では私が次の対局のお相手をいたします」

皆驚いて、楓を見た。
老人が不思議そうに楓を見た。年若い女の子が何を
言い出すんだろうという顔をしていた。

嗣永八段が楓に心配そうに、
「加賀、大丈夫なのか」

「大丈夫です。賭け将棋をする人なんかには負けません」

楓はわずか16歳で奨励会三段リーグを女性で初めて突破して
天才少女とうたわれて、棋士になっても勝ち続け、先月には
棋戦にも優勝してまさに怖い物なしだった。

楓は、師匠の嗣永に恥をかかせたくなかったし、
上國料三段の負けをそそぎたい。

すると老人は手の甲を楓に向けて振りながら、
「やめじゃやめじゃ。次勝てば二十万じゃが、時間も無いし、
十万円貰えば十分や」

楓を女の子だとあなどり相手にしないつもりなのだ。

それでも楓は引かず、
「では、次の掛け金は、三倍、いえ五倍にします」

老人は、むっとしたのか、
「アホか!それなら、十倍ならやったる」

楓は、
「わかりました。十倍ならいいのですね」
楓は、眉ひとつ動かさず言った。

皆が一斉に驚きの声を上げた。もし負ければ百万円だ。

「時間は大丈夫ですか」楓がいうと、
「こうなったら、今夜は何処かに泊まるつもりや。
なにしろ、百万円が入ってくるんやからな」

「もう勝ったつもりか」
誰かがつぶやいた。

師匠の嗣永や上國料も百万円と聞いて顔色を変えた。
老人の将棋は定跡を無視した荒い将棋で、棋力は楓の方が
上だと思われるが、百万円が掛かった将棋だし、
力がある筈の上國料でさえ、乱戦に手も無くひねられたように
万が一と言う事もある。

「あんた歳いくつや。それに段は?」楓に老人が言うと、

「17歳です。四段を頂いています」
「ふ〜ん、女流か」
老人はそうつぶやくと駒を並べ始める。

すると、上國料が何か言いたそうに口を開いたので
楓はちらっと見て軽く首を振った。黙ってるようにと。
楓が四段の棋士には間違いないのだから。

上國料が楓の腕を取り離れた所に引いて、止めるように言う。

「大丈夫。あの老人の将棋に興味があるの。指してみたい」
上國料は伏し目がちに、
「すまない、俺が負けたせいで加賀さんに迷惑をかけて」

「いいえ、私こそよけいな出しゃばりをして」
「もし、負けたら・・・」

「負けたら、この前優勝して頂いた百万円があるわ」
「いや、万が一負けたら金は俺が出す!」

「でも」
十万円も出せないのに、百万円も奨励会員が出せるわけがない。

「親に借金する。今年は必ず棋士になって稼いで返すつもりや!」

「そう。上國料君なら必ず上がるわ。ありがとう」
楓は笑顔で上國料に頭を下げた。そして対局に向かった。

師匠の嗣永も決心して楓にまかせる事にした。
立会人を買って出て、チェスクロックを持ってこさせる。
お互いの持ち時間を20分。それが切れれば秒読みをして
一分以内に指す事になった。

それを老人に伝えると、
「ああ。かめへんよ。なにしろ百万円が掛かってる将棋やしな」

上國料が記録と時計係りになる。
振り駒で老人が先手となった。
対局が始まった。

先手の老人はいきなり『8六歩』と指した。

その初手を見た皆は一斉に「おおーーー?!」声を上げる。
少しでも将棋を知っている者が見ればありえない手だった。
普通は先手は7六歩と角道を開けるのだが、角の頭の歩を
突くのは常識外れの手なのだ。

楓はその手に対して、一瞬8四歩と飛車先の歩を突こうしたが、
本能がその手を指すのを止めた。
その先手8六歩の角頭歩突きは、ハメ手の一種で楓も
聞いた事はあるが、その対応は今すぐには思い出せなかった。

手を止めて少し考えて8六歩を見た後、3四歩と指した。

後は、定跡を外れた大乱戦になる。
楓は序盤を五分に持ち込めば終盤で勝負になると思う。
乱戦には自信があった。

楓は終盤の寄せが得意で、寄せのかえでぃと恐れられていた。

お互い20分の持ち時間を使い切り一分将棋になっていた。
時間が立ち、夜もふけてくる。

楓は冷静に立ち回り、老人の攻めを受けながら機を見て
果敢に敵陣に攻め入り、老人を追い詰めて行く。

さすがに老人は疲れの色を見せ始める。

その時、老人がある事をしたのを嗣永は見逃さなかった。
一瞬、盤の端の上に体を被さり皆に見えないように。

それを指摘しようとした時、

その時老人が、
「あんなお手洗いに行きたいんや、年寄りは
我慢出来ひんのや。頼むから時計を止めて行かせて
くれへんやろか」

立会人役の嗣永が楓を見た。

「はい。わかりました。どうぞ行ってください」
と言って記録係りの上国料を見た。

「おおきに。あんたはええ娘や」

老人がトイレへ立つと、
嗣永は、老人側の盤面の9九の箇所をじっと見つめていたが、
楓の腕を取ると、皆から離して行きささやくように言った。

「お前の勝や。あの爺さんは反則をした」
「ええー?!なぜですか」
嗣永はその事を話した。

楓はじっと聴いていたが、老人が帰ってくるのが見えた。

楓は嗣永を見ると、
「わかりました。でも先生このまま指し続けさしてください」

嗣永は驚いて、
「しかし、爺さんの反則ははっきりしてるのに・・・」

「何してるんや!早よう始めようや」
盤の前に座った老人が声をかけた。

楓は盤に向かった。
嗣永は、もし楓が負けたら老人の反則を言うつもりだった。

老人は時間に追われながら、寄せに入った。
握りしめていた香車を、ピシッと盤に打ち付けた。

それを見た上國料は、これは詰めだと蒼くなった。

その時、楓がさりげなくつぶやいた。

「不思議ね。さっき読んだ時私の王は絶対に詰まないはずなのに、
絶対に詰まない」

それを聞いて、老人は顔を上げ楓の顔を見て、
そして、楓の後ろで観戦していた嗣永の顔を見た。
嗣永は、軽くうなずいた。

老人は二人がすべて知っていると悟り、
駒台に手をやり、投了した。

下を向いたまま動かない老人に嗣永は盤面の香車を手に取ると、
静かに、本来の場所9九の箇所に戻した。

顔を上げた老人は、
「すまんかった。儂にはとても百万円は払えん」

嗣永は、ため息をついた。
周りの皆も安堵のため息をついた。

楓は言った。
「もちろん、賭け将棋は禁止なのでお金はいりません」

「ほんまか!すまんな助かったわ。
どうしても金が欲しかったんや」
老人は立ちながら言った。

「どうしてですか?」

「財布を落として大阪まで電車賃が無かったんや」

楓にはそれが嘘とは思えなかった。
財布を出すと、二万円を差し出した。
「これだけあれば新幹線の切符が買えるはずです」

老人はそのお金を押し頂いた。
「ありがとさん。あんたは、ほんまにええ娘。や」

帰りかけて振り返り、

「あんたはもしかして女流やなくて、棋士の四段なんか?」
「はい。そうです。すみません女流では無い事を黙っていて」

老人はあわてて、
「いや、儂も悪かったんや・・・」

「はい。わかっています」

「そうやろな・・・言うとくが決して故意や無いで。
手が触って香車が落ちたんや。そして知らぬまに
握りしめていたんや。ほんまやで」

楓はうなずいてみせた。

「そして、香車があれば詰む事に気がついたんや。そしたら
手の中に香車があったんや」

楓は、ひとつため息をつくと、
「もし、私が棋士だと知っていたら?」

「それはあかんやろ。女流ならともかく棋士相手では、
とても勝てへんわ」

そう言い残して、出て行こうとした老人に嗣永が声をかけた、
「あなたは、花村先生をご存知ですか?」

老人は懐かしそうに、

「ああ、東海の鬼の事やな。一度だけ指した事がある。
強かったで。なんとか持将棋にするのがやっとだった」

そう言うと老人は出て行った。


「花村先生って、あの名人戦の挑戦者になった事のある
花村先生の事ですか」と楓が聴いた。

「そうや。真剣師と言われる賭け将棋を生業としてた人や。
そのあまりの強さに、特例として試験を受けて合格して
プロの棋士になったんや。その花村先生と引き分けたという
あの老人の強さがわかるな」

楓は唇を噛むと、
「それに比べて、私はまだまだ未熟者です。
盤面を広く見る事をおこたり、先生に指摘されるまで
香車が無くなっている事に気付かなかったのですから」

嗣永は楓の肩に手をやり、気にするな。と言った。

そして嗣永は、まわりを見渡すと皆に、
「この事は、絶対に口外しないで貰いたい。お願いします」
と頭を下げた。
皆は了解して大きくうなずいた。

もし真剣師棋士が賭け将棋を指したと連盟の理事達に
知られたら、楓は只ではすまない。

しかし人の口に戸は立てられない。いずれは知られる事は
避けられない。その時は嗣永は自分の進退を賭しても、
楓をかばい通す気だった。もちろん、棋士の掛け将棋を
認めてしまった自分の責任が重大なのはわかり切った事で
自分が責任をとって棋士を辞めれば済む事だし。

皆が帰ると、楓は、
「ああもう何時かしら、お腹がすいたわ」
嗣永は楓の肩をぽんと叩くと、
「よっしゃあ、飯を食いに行こう」
楓は嬉しそうに笑顔を見せた。

そして二人は同時に上國料を見た。

上國料は気落ちした様子で、
「僕は帰ります・・・」

楓は上國料の腕を取ると、
「ねえ、一緒に食べに行こうよ」
と、甘えた声を出した。

上國料は、渋々うなずいた。


終り。